マイセン・青い花・614701 クリーマー・28761 120cc ミルクポット

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商品情報


アンティック ヴィンテージ店のお取り扱いは 中古品の世界ですが お熟成アインのは ピカピカの 新品です。
ヴェレンシュピール
ザビーネ・ワックス女史達が マイセン伝統の優雅さを失う事無く 使っても楽しい「用の美」を求め 口縁に白い波を表現した 染付作品集です。
偉大なマンネリズムを 標榜し 伝統を受け継ぐ一方で 20世紀の新風を求めて 創作美術集団クンストラー・コレクティヴを 1960年に立ち上げました。新グロッサー・アウシュニット型が ここから生まれました。
1975年には 更に若い世代によるクンストラー・コレクティヴが立ち上げられ ヴェレンシュピール型「波の戯れホワイト」や「青い花」を 生み出しております。

サイズ:120cc
素材:陶磁器
※モニターの発色の具合によって実際のものと色が異なる場合があります。
筧の話 (露草の青い花) 梶井基次郎忘れられない1節です。
この径を知ってから間もなくの頃、ある期待のために心を緊張させながら、私はこの静けさのなかをことにしばしば歩いた。
私が目ざしてゆくのは杉林の間からいつも氷室から来るような冷気が径へ通っているところだった。
一本の古びた筧がその奥の小暗いなかからおりて来ていた。耳を澄まして聴くと、幽かなせせらぎの音がそのなかにきこえた。
私の期待はその水音だった。どうしたわけで私の心がそんなものに惹きつけられるのか。心がわけても静かだったある日、それを聞き澄ましていた私の耳がふとそのなかに不思議な魅惑がこもっているのを知ったのである。
その後 追いおいに気づいていったことなのであるが、この美しい水音を聴いていると、その辺りの風景のなかに変な錯誤が感じられて来るのであった。
香もなく花も貧しい芒蘭がそのところどころに生えているばかりで、杉の根方はどこも暗く湿っぽかった。そして筧といえばやはりあたりと一帯の古び朽ちたものをその間に横たえているに過ぎないのだった。
「そのなかからだ」と私の理性が信じていても、澄み透った水音にしばらく耳を傾けていると、聴覚と視覚との統一はすぐばらばらになってしまって、変な錯誤の感じとともに、訝かしい魅惑が私の心を充たして来るのだった。
私はそれによく似た感情を、露草の青い花を眼にするとき経験することがある。
草叢の緑とまぎれやすいその青は不思議な惑わしを持っている。
私はそれを、露草の花が青空や海と共通の色を持っているところから起る一種の錯覚だと快く信じているのであるが、見えない水音の醸し出す魅惑はそれにどこか似通っていた。
「課せられているのは永遠の退屈だ。生の幻影は絶望と重なっている」
アンティック ヴィンテージ店のお取り扱いは 中古品の世界ですが お熟成アインのは ピカピカの 新品です。 
当店のお品は 総て 現地在庫を漁らず(現地では B品の販売があり その混入を避けるため) 欧州代理店を通じて 各メーカーに 発注して 制作してもらったものです。
14世紀に景徳鎮で完成した磁器最終の姿 「染付」
中国は後漢の頃 紀元1~2世紀の古磁器以来 千数百年の発達史を経て 中国の景徳鎮で 14世紀に 発明された呉須 (素磁に手描きし 釉薬をかけた後に1400゜Cもの高温の焼き付けに 耐えうる 酸化コバルト)は ベトガーにとって 秘法発見に匹敵する程 困難なものでした。
(アウグスト強襲王は もたつくベトガーへのあてつけか 後に大王と呼ばれる フリードリヒ・ヴィルヘルム二世の祖父 最大のライバル フリードリヒ一世の シャルロッテンブルク宮殿の 染付磁器約120点と 竜騎兵600騎とを 交換しております。
奇しくも マイセンで呉須の まぐれ当たりのあった1717年の事でした。
息子のアウグスト三世は 後に この竜騎兵600騎を含む フリードリヒ二世軍に 大敗を喫します。この交換の結末を 故祖父・父王達は知る由も無いのですが・・)
あせるベトガーに 呉須は微笑む事無く 彼の いがみ合う徒弟ケーラーとシュテルツェル達により 何度かの偶然の末 彼の亡くなる 1719年に それは 完成するのですが 死の床にあったベトガーに 朗報は 届いたのでしょうか?
3人の天才ヨハン 
1人目はヨハン・フリードリヒ・ベトガー(欧州磁器の父)
 錬金術師にて ヨーロッパに 東洋の白磁を もたらした天才です。 
2人目は ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト,天才絵付師です。 
3人目は ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー,天才造形師です。
天才は 狂気なり。
ヘロルトは 出世欲の権化でした。出世のための 名誉であり 守銭奴でもありました。マイセン ひいては 窯業界に与えた 今に生きる功績は 一将功成り 万骨枯る 功罪相半ばするでしょう。
3人の天才ヨハン-2
2人目は ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト,天才絵付師です。
1720年 ヘロルトが パキエの窯を抜けてきた頃の マイセンの絵付けは 一流とは言い難く ベトガーや シュテルツェルやケラーらが 開発した顔料の色数も 貧相なものでした。
(ベトガーが 持て余した白磁の多くは 磁器街道と呼ばれた水路を通って アウグスブルグのハウスマーレライ・無所属の絵付師らに 売り渡されておりました。マイセン社史では 贋作に手を貸す この不名誉な事は あえて触れられておりません。) 
ヘロルトは ウィーン・パキエの窯から持ち出した フンガーの顔料や ベトガーの いがみ合う2人の高弟 ケーラーと シュテルツェルが合成した顔料に 自らも開発した顔料
〔1723.4.30.秘密主義のケーラーは亡くなるのですが ヘロルトは 看病にかこつけて うまく臨終に立ち会い 彼の隠し金庫の鍵を盗み 顔料調合秘術書を 盗み写し 重要個所は 巧妙に破り盗り
(この悪行は 15年後に発覚するのですが すでに 宮廷画家として確固たる地位を 確立しており マイセン委員会でも手出しならず 不問に付されました)
自ら開発したマッフル窯で 柿右衛門に勝るとも劣らない 鮮やかな色彩の顔料16色を完成。〕
を以って 彼独特のシノワズリを 確立していきました。
ヘロルトのシノワズリは 欧州にて 高い評価を受け 果てには 本家中国にまで 影響を及ぼすほどでした。
ヘロルトは ベトガー亡き後 非凡な絵付けの才と ケーラーや シュテルツェルを踏み台に 調合しえた極彩色の顔料で為しえたシノワズリやジャポネズリを武器に マイセン委員会を慇懃無礼に 我が意に添わせ 宮廷画家の地位と 高額の分け前を 確保していった。
肩書に見合う 裕福な町の名士の娘と結婚もしたが あまり幸せな結婚ではなかった。
10年の間に 7人の子を生したが 皆7歳を見ずなくなった。彼の意固地な性格は さらに助長され 親方の徒弟いびりに輪をかけ マイセン内では この早死には 不行跡の報いと噂の花を咲かせた。
彼は職人たちの腕を食い物にし マイセンから受け取る金のほんの1分しか払わなかった。挙句 腕のいい職人たちが 独自の画風を確立して 1本立ちして 自分の立場を脅かすことを恐れ 画題を制限して才能の開花を妨げ 作品への署名などは 勿論禁じておりました。
中には うまく隠しサインを入れたものもおり 今も その名残で 意匠の中にサインを隠した作品を見ますが それは作品に秘密性を持たせ 高価を装う話題作りになっております。
彼は 新米への教育手当も受け取りながら 才能の開花を恐れ 訓練はおざなりで マイセン委員会の指摘には 腕をあげて転籍され秘密漏洩の防衛手段としてと言いひらきしていました。
そんな中で 多少なり腕を磨いたものは ヘロルトに離反して 結果マイセンを離れ マイセンは多大の損害を被った。
権力者ヘロルトの魔の手からうまく逃げ出せた者は良いが 最初からの弟子ハインツェは 才能がありながら 虐げられ 生活の糧の為 白磁をこっそり盗み出し 家で絵付けをし それを捌き 生活にあてた。
露見して獄につながれるのですが ヘロルトの手から逃れるために脱獄し成功し 作品の1つは シュットガルト州立博物館に収蔵されております。
逃亡に失敗した1人 遠縁のクリスティアン・フリードリヒ等は 前職の腕を生かし 生活の為 銅板の琺瑯絵付けの内職をしたのですが 実力に懸念を抱いていたヘロルトは 罪に陥れ逮捕させました。
彼はこの場は磁器への絵付けではないと言い逃れ すきを見ては逃亡を図るのですがいつも阻止され 40年を耐えさされました。
しかし40年後に 生活の為 昇給を願い出るのですが ヘロルトは 秩序転覆罪で 彼を獄につないだのです。
1779年 79歳で亡くなるのですが 無名の親方クリスティアンは 後世マイセンに最高の絵付けの典型を残しました。
磁器の起源は 中国は後漢の頃 紀元1~2世紀に 端を発します。
古磁器を経て 紀元6世紀 中国河北省で ほぼ今の磁器に 遜色なきものになり 11世紀宋代に至り 近くにカオリンシャンを擁する 景徳鎮が 1300度の高温で 美しい白磁を 完成しました。
13世紀 日本を 黄金の国 ジパングと呼んだ マルコポーロが 美しき海の寶貝 ポルツェラーナ
(ポースレーンの語源。寶貝は 古代通貨でもありましたので 白い黄金にも通じました。)
と 賞賛し イタリア・ヨーロッパに初めて紹介しました。
それまでにも アラブの玄関口であるイタリアには シルクロード経由で 先に入手していた アラブの王様から 自分の威光を 誇る 贈り物として 入ってきておりましたが 東洋からのものと 判明したのは マルコポーロによります。
この時 彼は 完品は高すぎて手が出ず 破片を 持ち来ったそうです。 
ヨーロッパにおける 磁器の焼成は 16世紀の古きから アラビアと東洋の 玄関口であった ベネツィアで 先ず 試みられましたが 曇ったガラス球に終わりました。同じ16世紀に フィレンツェ大公(富豪メディチ家)は 砂 ガラス水晶粉を 粘土と混ぜた見事な焼き物(軟質磁器)に成功するのですが やはり 東洋の秘法による白い黄金には とても及びませんでした。
その後も 欧州各地で 白い黄金の焼成が 試みられますが 総て 陶工達によるものでした。 
磁器のガラス質に 惑わされた彼らの せいぜい成功らしきものでも 随分 白い黄金には 見劣りのする 軟質磁器(ヴァンサンヌに続く セーヴルでも フリット軟質磁器)どまりでした。
一方本家中国の景徳鎮で 14世紀には 磁器最後の姿 染付の完成を見ます。
東洋では 千数百年の長きにわたる 多くの職人達の 勘と経験を 積み重ねた 結晶の賜物として 花開きました。片や西洋では 憧れの白磁を 科学的に分析することで 錬金術師(中世における 科学者の呼称)ベトガーは わずか3~5年で 1710年に完成させました。
ザクセン王国 宮廷科学顧問官 チルンハウス(彼とて 多くの陶工と変わらず 磁器のガラス質に惑わされ 軟質磁器の研究に 堕しておりました。化学的変成にこだわり 分析と 実験の王道により 白磁を極めたベトガーは やはり非凡の天才でした。)の 白磁研究の基礎に 助けられたとはいえ 西洋科学分析手法の 優越性は ベトガーへの個人的資質の賞賛のみにとどまらず 明治維新の日本でも 優れた西洋科学として 競って受け入れられました。
今や 日本をはじめ 東洋は 西洋を 凌駕せんばかりの 勢いです。
少し理屈っぽくなりましたが 磁器をめぐり 東洋と西洋の違いを 言ってみたかったのです。

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